近世に岩手県の浜筋を陸前高田市から洋野町まで南北に貫く道筋(浜街道、浜辺道)は、重要な街道として旧仙台領から旧盛岡領・八戸領まで、一里塚が設置されました。換言すれば、一里塚が設置された道筋が正式な浜街道のルートということになります。浜街道が北上し田野畑村に入り、平波沢から正式な街道は東に方向を変え、田野畑地区から北ノ沢の北に東西に横たわる長根を往き、一里塚のあるキリプセ峠から 明戸坂を下り明戸地区に下りて行きます。そこからは明戸川の北側のぼなり松坂を越え、机~北山~黒崎~太田名部~普代と北上します。三閉伊路程記では、南下する記録で、普代から、太田名部、黒崎、北山、机、羅賀と来て、田野畑と歩く記録となっており、三閉伊日記でもこのルートが主な街道として述べられ、昔は普代から沼の袋を経て田野畑に行くのが街道であったとしています。

 しかし、田老町史の近世資料を読むと、宮古通の宮古の御官所(代官所)から宇部にある野田通の野田御官所間の文書のやり取りが結構な数記録されており、そこからはその御官所間を文書をもって行き来する伝馬夫は、先に挙げた浜周りの道筋ではなく、田野畑の平波沢からは、西に向かい閉伊坂を越え、沼ノ袋~萩牛~卯子酉山の鳥居~普代村の堀内、を経由して北上することがほとんどあったようです。三閉伊日記では、この田野畑と普代の間は古は沼袋を回る道が盛んに使われたが、今は(その当時)もっぱら浜周りの道が使われる、という記述がありますが、文書からは実際沼袋を回る内陸ルートが盛んに使われていたということが事実のようです、

 従って、浜街道を述べるのに、この田野畑村から普代村までの沼袋(近世は沼ノ袋としたようです)周りルートは実際に使用された頻度の高い、実質上の主街道として記録しなければなりません。

 調査・踏査は進行中ですが、実施した所からこのルートについて記録して報告したいと思います。

 

 (題名の背景写真は、その内陸回り浜街道の姫松東側の閉伊坂の途中の旧道の様子です)

 

更新:2024年2月18日

1,田野畑地区または、平波沢から板橋

 田野畑の菅の久保から浜街道は松ノ越(現在はH家の屋号ですが、昔は地名であったようです)、そして平井賀川を越えて平波沢、さらに田野畑地区の鍬形神社前を通りキリプセ峠に向かいます。沼袋への旧街道はその鍬形神社から西に分岐し、現在の住宅地がある田野畑地区の住宅地北側の林の中を西に向かい、坂の入り口に至ります。部落の最も西にあるS家は、近世野田や宮古通の使いなどが通ると休み場になっていた、とのことをSさんが教えてくれました。そこは北側の川平、そして小松山に往く道の分岐でもあります。

沼袋への道は、そこから長根の日向側を掘割にしたかなりの工事量の道を登り始めます。掘割道を過ぎると山の長根の南側を地形に沿って少しずつうねうねしつつ登って行きます。376mの一つのピークの南面はS字状に掘割道があります。そこを抜けると斜度の緩い長根道になり、西に向かいます。S字状の掘割道の東側のすこし地形が開けて、田野畑の部落が望めるところで、嘉永の昔、田野畑村から行った三閉伊一揆のはじめ、木で作られたほら貝が一揆の開始の合図として吹かれたとのことです。その辺りが”小峠”ということです。412mの峠に向かっては概ね斜度は緩く、曽根道となります。このあたりからは天気が良いと太平洋が水平線まで一望されます。厳しい生活を送っていた古、この道を越える我々のご先祖は、広い海を見てなにを思っていたのでしょうか。峠は浅い切通しとなり林の中を西に下っていきます。

 峠の西は浅い掘割となっていて、林の中を下ります。一面笹薮となっており、二筋の旧道が西へと下ります。鼻を右(北)に少し曲がるとV字に掘割道となって下って行き、広い笹薮にでると道は左へのカーブしますが、右に林道が分かれて下ります。

そこの分岐は笹薮で非常にわかりづらくなっています。左(南)へカーブしつつやや登り、地形上鼻になっている所から右にカーブし緩く下りますが、その右側に旧道が残っています。そこからは旧道はほぼ林道化しており、時に旧道が南側にみられます。そこを下って往くと十文字となります。そこから北へは板橋を経て姫松、尾肝要、左に下ると曲柏木坂を下り、平波沢へと至ります。そこから北西に行くと林道に沿って旧道が見られます。下板橋沢を越、開拓地の農道に吸収された旧道は西の牧草地に行き、いったん消滅します。開拓の農家の住民に聞くと旧道は農道の所を通っていた、とのことでした。

A-1)浜街道の通る鍬形神社前から沼袋への街道は分岐します。田野畑地区の住宅がの北側を通り田野畑側の坂登り口にいたります。

B-1)掘割道をさらに登ります。

B-3)小峠のさらに上には地形上張り出した長根をS字状に掘割にしてさらに上る掘割道があり、ここをさらに登って行きます。

C-2)田野畑から尾肝要までの閉伊坂の峠です。峠の名前は不明です。ここから板橋に向かって下って行きます。

D) C-3)の下から旧道は林道化し、このような道と化しています。時にその脇に旧道が現れますが、伐採と落葉松植栽となり、かなり昔の道は消滅したところが多い状態です。そして板橋-平波沢などに往く分岐にいたります。

AA-1)曲柏木沢に沿った掘割の道を沢の傍まで下ると、非常に狭まった谷となり街道は沢を左岸に渡り東側の山の腰を上がって行きます。

A-2)閉伊坂田野畑側の登り口です。長根の日向側を掘割に旧道は掘られていて尾根筋に登って行きます。ここの下は、北方向の川平、小松山への分岐の十文字でもあります。

B-2)掘割道が終わり、地形がやや平坦になり、下に田野畑の集落がみえるこのあたりを”小峠”と言い、嘉永六年などの一揆の時に、木ボラをこのあたりで吹いて一揆(押立)の開始を告げたそうです。

C-1)長根にあがってきた旧道は、勾配は緩くなり西に向かいます。このあたりから、田野畑の台地越しに東に太平洋が一望です。

C-3)峠の西側も掘割道が残っています。また平坦な一部では二筋の道が付けられていました。

E)林道化した十文字から北上する道、その沢側には少し旧道が残存しますが、ここから西に少し旋回すると板橋の村道化した道にでて、そこを西進していきます。その西に延びる舗装道路は、住民によれば旧道を拡幅舗装したものとのことです。

AA-2)山の腰から小さな谷筋に至るとそこは二筋の旧道が開削された人工の地形となり、下り、国道45号にあたります。その向こうには平井賀川が流れています。


2,板橋から姫松、尾肝要を経て沼袋

 板橋の農道が国道45号線に合流する前に牧草地の方に向かって右に折れるあたりから旧道があったと思われますが、牧草地や土砂置き場で埋め立てられて、そのあたりの旧道は一切不明です。牧草地のあたりを旧道は西に向かってあったはずです。牧草地の西側の終わるあたりから旧道が現れます。そのあたりから姫松付近まで(今は国道45号線の姫松~板橋を閉伊坂といいます)が古からの”閉伊坂”です。

国道が峠から姫松にうねうねとと下る坂の北側の長根を、時に小さな掘割道が残り、下って行きます。旧道は比較的よく残っていると思います。姫松から尾肝要は、川の両側が山となっている狭隘地を切り開いて国道が作られたりし、旧道は残っていませんが、尾肝要の部落内の道が旧道で、そのまま残り、部落内の道で沢を渡った所に石碑群が佇んでいます。石碑群に至る前に橋を左折し、自動車道や国道で断ち切られた西側の谷には”尾肝要坂”と言う、沼袋に登って越える坂がいくらか残り古の道筋を知らせてくれます。坂の峠から下りは

車道で旧道は消えました。沼袋(古は”沼ノ袋といった)の昔の家並が残る中心部に入ります。そして家並を右折して少し行くと普代川に出ますが、そこに昔あった渡河点(橋)にも石碑群がひっそり立っており、昔の道筋を示しています。そこを北に進み村道ではなく、そこの右に曲がる角からまっすぐ北上する坂道から徐々に林に入って林道化した旧道を進みます。林の中の旧道を道なりに進み、沢を越、森の中にある一軒の住家を過ぎ小さな峠にきますと、眼下に一の渡りが見渡せます。”日記”に記述される場所に一致すると思われました。

また遠くに高森など山々が見渡せます。そこから林道化した旧道を往くと北側の山林内に旧道がところ処に残っております。少しの下りをいき村道に出ますが、そのあたりに旧道は不明となっており、沢筋に下って向こう岸に旧道があるようでした。

F) 尾根を西に下ってくると、そこから掘割の状態で国道方向に下る道が残っている。

G-1)旧道を下り国道と合流するとそこには石碑群が佇んでいる。珍しい達磨さんの石碑もある。

H)尾肝要の部落内の旧道脇に

石碑群が並んでいる。

F-2)姫松の石碑がある所で国道と合流する前に藪の中に旧道が残っている。

G-2)尾肝要の集落に入る。